持明院 統。 持明院統と大覚寺統の始まりと鎌倉幕府を巻き込んだドロドロの抗争

生涯[編集] 後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏が湊川の戦いで宮方に勝利し、建武3年(1336年)に京都に入ると後醍醐天皇は比叡山延暦寺に逃走する。 この騒動後の6月27日貞常王への親王宣下が行われた。

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加えて南朝方と依然交した誓約は後光厳院流に対しても有効であるとみなされ、崇光上皇は失意のうちに崩じた。

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『亀山天皇』の皇統で,南北朝期の『南朝』にあたります。 両統迭立は一見ただのグダグダに見えますけど、その混沌(カオス)のエネルギーが、後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅亡させる大きな原動力になったのではないか・・・なんてこの記事を書いて思ったりしたのでした。

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当時の公家政権に大きな影響力を有した前や、将軍足利義教らがこれに同意したために諒闇が実施されることとなった。 亀山院も事件に関係のない旨の誓紙を鎌倉幕府に送ったことから、幕府はそれ以上の追及はおこなわず、三条実盛も釈放されて、事件は終わりました。

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この時分かれた2つの天皇家はそれぞれ 大覚寺統(だいかくじとう)、 持明院統(じみょういんとう)と言います。 両統迭立のはじまり 1274年(文永十一年)1月、亀山天皇は皇太子の世仁親王(後宇多天皇)に譲位しましたが、引き続き治天の君でありつづけたので、「親政」から「院政」という形で政務が行わうことになりました。

これは理解できるところです。 そして、後堀河天皇は譲位後、持明院殿内をとして居住したが、その後、後嵯峨、後深草両上皇もこれに倣って持明院殿内に住んだ。

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持明院統はとも協調的であり,南時代に入ってもの支持によって北朝の皇位を継承した。

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